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2009年 09月 21日
大変ご無沙汰しております。
8月は激動の時期で何をしていたのかもはや思い出せないありさまです。世間では連休ですがもちろんフル稼働中です。ああっ! ジロ・デ・信州の練習もお茶のお稽古もままならず、1日がもう少し長ければと思うことこの上ありません。 少し前のお話になりますが、先月末は「金田伊功さんを送る会」に出席させていただきました。訃報を聞いた時は何のことだか飲み込めず、にわかには信じられませんでした。なぜなら、僕の中の金田さんという方は、いつもお茶目でキュートな方という印象で、まさに「元気!」という言葉がぴったりの方だったからです。 僕がまだ業界に入って間もない頃、あの金田さんと一緒にお仕事ができたというのは、当時の僕にとって本当に夢のような時間でした。中学校の頃「ゲッターロボ」や「ガイキング」で変な絵を描く人がいる! 「劇場版 宇宙戦艦ヤマト」でめちゃくちゃかっこいい絵を描く人がいる! とアニヲタの走りである当時の自分が思っていたら「アニメージュ」で特集記事が組まれたのです。それは、まさにスター・アニメーターの第一号が誕生した記念すべき瞬間でもありました。 そんなスター・アニメーターと言われる方でしたが、金田さんはさえないジブリの一新人だった僕にも気さくで優しい方でした。 僕が金田さんと聞いて思い出すのは、ジブリで「ラピュタ」をやっている頃、原画をご担当されていた篠原さんのファンクラブを二人で密かに立ち上げたことです。(ちなみにそれは金田さんが会員1号で、僕が2号というだけのほんとうに密かなファンクラブでした) 主な活動内容といえば、僕らが仕事もしないで、無駄話をしていたとします。すると、遠くから「カッカッカッ」というヒールの音が近づいてきて(※注 スタジオ内ではたいていのスタッフはスリッパかスニーカーに履き替えてしまうので、ヒールの音を聞けば一発で篠原さんとわかるのです)その足音が僕らのすぐ傍らでぴたりと止まり、ハッ、と見上げるとにこやかな篠原さんが「あ〜ら、ずいぶん賑やかね?」(目は笑っていない)と一言おっしゃると、靴音高く歩み去って行きます。すかさず僕らは顔を見合わせ、「ムッヒョー! たまんねー! もっとなじって!」などと感想を言い合う、それが活動内容でした。 実は「ラピュタ」をやってるときは、僕の左隣が金田さん、右隣が賀川愛さん、後ろに「スプリガン」の川崎さんと近藤カッチーというすさまじい一角で、僕はその中で落ちこぼれ原画マンとして仕事をしていました。金田さんは、そんな僕をみかねて、ちょっと席を外した隙に僕のコーヒーカップの裏にマジックで「ハンギョドン(※サンリオのキャラクター)」をかきつけたり、作監修正のふりをして変な絵(オバQみたいな、不定形ないきものの絵)を原画の上に書き足したりと、様々なちょっかいで元気づけてくれました。 あと、よく音楽の話もしたなあ。 金田さんはジャズが大変お好きで、ソニー・クラークとかヘレン・メリルのレコードを貸してもらったり、逆に僕は民族音楽のレコードを貸してあげたり、ファッツ・ナバロを教えてあげたりしました。一方「海援隊」や「荒井由美」をヘビーローテーションでかけていた(ああ、「ナウシカ」の時は「喜多郎」も聞いていたような気がする)宮崎さんに比べて、金田さんは大変趣味がいい! さすが俺たちの兄貴! と当時まだ20代だった生意気盛りの僕は思ったものでした。 そんな感じで「ラピュタ」の頃はふざけあいながら、そして宮崎さんには怒られながら(僕だけですが)、日々楽しく仕事をしていました。あの宮崎さんのスタジオなので、基本的には監督の方を向いてストイックに仕事をしなくてはいけないのですが、金田さんがいたことで、とても現場の雰囲気がなごんで、厳しい日々の仕事の中にあっても楽しかったことばかりが思い出されます。そんなわけだから、その後のジブリ作品において「原画頭」という異例の肩書きでクレジットされているのです。 だから、なんで!? なんで!? という思いしかなく、もうこの世界に金田さんがいないということに実感がわきません。僕が最後にお会いしたのは、僕のデビュー作の「青の6号」の作打ちに来ていただいた時が最後だったように記憶しています。文字通り、僕が初監督ということで、ご祝儀参加してくださいました。 その後、スタジオが新宿にあった時、遊びに来てくださったのですが、ちょうど僕が席を外しておりお会いすることができなかったのが今思い出しても大変悔やまれます。 そんな訳で「送る会」では、本当に業界のそうそうたる面子が集合していて、懐かしいお顔もたくさん拝見したのですが、なんだかお話をする気にはなれなくて、雨の中そそくさと家路についてしまいました。
by yamaneko_sha
| 2009-09-21 00:54
| inuboe
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